西サハラとパレスチナの間
 ―西サハラ政治囚への連帯メッセージ

以下の文章は、セミナー「西サハラ『グデイム・イジーク抗議キャンプ』を忘れない〜砂漠の民のレジスタンスと弾圧」(2020年11月7日開催)のために政治囚に向けたメッセージを書かれた長沢美沙子さんのエッセーです。雑誌『詩人会議』2021年2月号(No. 701)、52-61頁に掲載されました。発行者の許可を得て転載します。

西サハラとパレスチナの間
 ―西サハラ政治囚への連帯メッセージ

長沢 美沙子

  永遠(とわ)に生きてあれ

愛しい祖国よ
苦しみと痛みの石臼が
暴政の荒野でどれほど長く
あなたを撹拌しようとも
彼らがあなたの眼をくり抜き、
あなたの希望と夢を抹殺したり
起ち上がるあなたの意志を磔(はりつけ)にし、
我らが子供たちの微笑みを鋼鉄で覆い、
壊して焼いてしまうことなど
決して出来はしない
なぜなら、我らの深い悲しみから
我らの流された血の生々しさから
生と死の戦慄から
生命はあなたのなかで再び生まれるのだから
(訳・関場理一)

 パレスチナを代表する女性詩人ファドゥワ・トゥカーン(1917―2003年)の詩です。わが祖国よ、永遠に生きてあれ、との願いが込められています。どんなに痛めつけられても、私たちは生き続けるのだ、むしろより強くなるのだと、折れないぞ、という民族の意志を表しています。

 2020年11月7日にオンラインセミナー「西サハラ『グデイム・イジーク抗議キャンプ』を忘れない~砂漠の民のレジスタンスと弾圧」が西サハラ友の会主催により開催されました。そして、このセミナーで同会の運営委員の私は、西サハラの政治囚に向けてのメッセージを読み上げる中で、この詩を最後に引用しました。このパレスチナ人の詩が西サハラの人々にも共感されるものと信じたからです。
 西サハラ問題を一言で言うなら、アフリカ最後の植民地であるということです。すなわち、西サハラの人々(サハラーウィ)がモロッコの占領下に置かれ、あるいは追放され、独立を遠ざけられている問題です。一方、パレスチナ問題もまた、イスラエルの占領下に置かれ、あるいは追放され、独立の展望も見えない問題です。しかし、パレスチナ問題はその存在はよく知られていながら、正しく理解されず、パレスチナ人に対するイスラエルによる抑圧が続き、解決が難しくなるばかりになっていますが、西サハラ問題は問題があることすら知られずに放置されてきたところに深刻さがあります。
 パレスチナ問題が正しく理解されない大きな理由は、イスラエルを批判することがすなわち反ユダヤ主義の差別であるなどという言説がはびこり、シオニズムへの批判をユダヤ人差別だと意図的に誤って解釈するなど、植民地主義者に都合良く歪曲される固有の仕掛けがあるからですが、何世紀も迫害されてきたユダヤ人を守ることが人道であり正義であると思い込まされているところにも問題があります。パレスチナ人とパレスチナ問題がフェアに認識も理解もされない不幸と不運を背負わされています。
 たしかに西サハラ問題は、こうしたパレスチナ問題に見られる複雑な欺瞞の覆いという側面を持っていないと言っても良さそうです。しかし、パレスチナ問題も西サハラ問題も同じく基本的には植民地主義の問題です。そして抑圧者へのレジスタンスとなって現れている点も共通しています。イスラエルのアパルトヘイト体制は知られるようになってきていますが、モロッコがイスラエルと同じ体質の国だとは知られていません。ですから、初めて西サハラ問題に出会う人は、驚き、衝撃を受けるのです。
 次に、オンラインセミナーでモロッコの牢獄に閉じ込められた西サハラの政治囚たちに向けて、私が書いた連帯のメッセージを引用します。

グデイム・イジーク・グループの英雄たちへ
 私たちは知りませんでした。
 西サハラの人々がスペインの統治下から解放されようとしていたとき、住民投票によって自分たちの運命を自分たちで決め、それを国連が約束してくれたというのに、「緑の行進」の名の下に大勢のモロッコ人が国王の大号令で押し寄せてきたのでした。そのニュースを聞いた私たちは、この事件がモロッコによる西サハラの占領、植民地化の始まりだったということを知りませんでした。
 それは、アジアの東端ではベトナム戦争が終わり、米軍がベトナムを去り、ベトナム解放の明るい日差しに喜びを感じていたときのことです。そのとき、西サハラ人民の受難が始まっていたということには全然気づかないでいたのです。

 私たちだけではなく、世界の大半の人たちが西サハラの人たちの受難を今日まで知らないまま過ごしてきました。観光でモロッコを訪れる人たちが増える一方で、西サハラの人たちが占領によって虐げられ、痛めつけられ、存在さえ消されそうになっていたことに気づきませんでした。
 占領下に生きるサハラーウィ、難民として生きることを選んだサハラーウィ、いずれもモロッコに従属した二級市民になることを拒む、誇りあるサハラーウィとして生きようとしてきた人たち。しかし、西サハラの人々の声は私たち日本人のところには届いていませんでした。住民投票による民族自決の権利を獲得するため、外交の力でたたかってきた西サハラの人たち。約束をどれだけ踏みにじられても、武力に訴えずにたたかい、我慢に我慢を重ねていることを、私たちはつい最近まで知りませんでした。

 私たちは知りませんでした。
 西サハラの漁場である豊かな海でタコ、イカ、イワシ、サバ、マグロ等が水揚げされるそうですが、それはすべてモロッコの操業なのだそうですね。モロッコ産の表示がついたタコをスーパーでよく買ったものですが、本当はモロッコが略奪した西サハラ水産資源だった可能性が大きいということを私たちはずっと知らずにいました。魚好きの私たち日本人は、こうした収奪の恩恵に浴してきたわけですから、それを知らないでいることは占領という犯罪の共犯者になっているということです。

 私たちは知りませんでした。
 西サハラに北から南へと走る全長2700キロに及ぶ万里の長城のような「砂の壁」と呼ばれる分離壁が建設されていたということを。しかも、この、イスラエルの軍人の助言で建設されたという「砂の壁」あるいは「恥の壁」と言われる分断の壁は、パレスチナ西岸で建設されたアパルトヘイトの壁、「分離壁」に先立つものだということを。

 私たちは知りませんでした。
 10年前の2010年10月に、エル=アイウンの町から15キロメートル離れたグデイム・イジークという地点に7千基ものテントが張られ、サハラーウィの集まる2万人もの巨大なテント村となったこと、それが不法なモロッコ占領に抗議する非暴力の「尊厳のキャンプ」であったこと、そしてまたそれが徹底的に破壊されたということを。このキャンプ建設という抵抗運動が、その後まもなくチュニジアで12月に発生し広がっていくアラブ民衆革命の序章であったことを。

 私たちは忘れません。
 グデイム・イジーク・グループの皆さんが監獄に繋がれて、すでに10年が経つことを。国際法に違反する偽の裁判で投獄期間が決められ釈放されないことを。劣悪な監獄の環境であること、家族との面会も許されないこと、差し入れの食糧も横領されてしまうということを。

 この10年の間に、世界は大きく変わりました。多くの難民が生まれ、無慈悲な暴力が振るわれ、分断の壁が人々の自由を奪うなど、理不尽で不公正で無残な光景が世界各地に広がっています。
 しかし、西サハラが独立国家として正々堂々と名実ともに独立国家として建国される日を夢見ている皆さんとともに、私たちはその日を夢見て支援の輪を広げていきたいと願っています。今日、それを心に誓います。

 私たちは誓います。
 皆さんの勇気を忘れず、伝えていくことを。正しき世とはどういうものかを。そのために大事にすべきことは何かを。
 戦いの最前線に立っている皆さんを占領国家は恐れているのです。皆さんを外へ解き放ったら、自国を非難する声が世界中で高まるだろうと不安なのです。真実を知られることが怖いのです。
 私たちは、皆さんに連帯し、真実を伝え、皆さんの釈放を願う人々の輪を広げていくことを強く心に誓います。

 私たちのメッセージの最後に、パレスチナの詩人ファドワ・トゥカーンの短い詩を捧げます。(そしてここに、冒頭の「永遠に生きてあれ」という詩をつけてメッセージ全文としました。)

 以上が、西サハラ政治囚に向けて届けたメッセージです。
 西サハラの政治囚を取り上げたオンラインセミナーのねらいは、西サハラ問題の人権問題に焦点を当てて、問題の本質を考えてもらうことでした。当日のプログラムのハイライトは、30年の禁固刑を受けて獄中にあるナマア・アスファーリーさんのフランス人の妻であるクロード・マンジャン・アスファーリーさんと、強制失踪の被害者で4年近くを獄中で過ごした経験を持ち、現在人権団体の副会長を務めるガーリーヤ・ドゥジーミーさん(53頁写真参照)、その二人の女性のビデオメッセージでした。そしてそこに、思いがけず獄中のナアマ・アスファーリーさんから直前に届いたフランス語によるメッセージも加わりました。当日はその一部が日本語に翻訳され読み上げられました。どのように獄外に持ち出されたのかはわかりませんが、とにかく奇跡的に届きました。なお同メッセージの全文は、後日フランスの共産党系『リュマニテ』紙とカトリックの新聞『ラ=クロワ』紙に掲載されたそうです。
 読み上げられたそのメッセージの印象的な部分を紹介します。
 
政治囚ナアマさんからのメッセージ
 「怒りはこの世で最も公平に分け与えられているものである」自由と独立のための闘いの達成として人民の正当な要求を具体化する手段として住民自決投票の実施を期待して1991年に国連によって課された現状維持にはどんな意味があったのだろう?(中略)
 国連は西サハラ人自らの主要な要求により成果を生んでくれるという希望のもとで預けた「怒りの銀行」になることができた。こんにち、国連はその役目をほとんど果たしていない。2010年10月のグデイム・イジークから2020年10月のゲルゲラートのデモまでの10年の歳月は、国連の(方針の)欠陥を示すものとみなし得る。(中略)
 実際、西サハラ問題を占領と自決権の問題としてではなく、「係争問題の解決」として扱っている。こんにち、あたかももはや占領がないかのごとく、住民自決投票計画がないかのごとく「係争問題の解決」が語られている。西サハラ人民のみが最大の敗者となっている。侵略者と非侵略者を同じ土壌に乗せて、一触即発の究極状態を作っている。(中略)
 西サハラ人民にとってグデイム・イジークは最も美しく、健全かつ正義にかなった怒りである。なぜならこの怒りは国連方式の欠陥を白日のもとに晒したからである。…占領下で生きる者は「ノン」のもつ衝動をどう感じるかを知っている。これらを善良な魂の不毛な怒りやニヒリスト的な誘いだと言って批判することはできる。しかし、怒り、異議申し立て、憤り、犯行、拒否、ノン、これらすべての情念を伴った否定性の形態は、世界をあるがままに受け入れず、もうひとつの世界を欲する一つの手段でもある。ここで私は「ノン」こそすべてだとか、ましてや怒りこそすべてだと言っているのではない。可能性への信頼を持つ政治的及び存在論的大切さをもう一度取り戻したいのだ。」(仏文和訳=勝俣誠)

 ナアマさんはモロッコの首都ラバトに近いケニトラの狭くて衛生状態も良くないと言われる監獄に閉じ込められながらサハラーウィの過去と現在そして未来を思索し、「怒る権利」を高らかに謳います。抑圧される人民の正当な権利として「怒る権利」があるのだと。怒りの向かう先はモロッコ王でありモロッコ王国であるのはもちろんですが、それは国連にも向けられています。怒りの預け先を国連と信じて希望を託してきたのに、平和でもなく戦争でもない状態でよしとしてきた不誠実さに怒りが向けられているのです。「あたかももはや占領がないかのごとく、住民自決投票計画がないかのごとく『係争問題の解決』が語られている。西サハラ人民のみが最大の敗者となっている」というところに明確にそれが示されています。私にはナアマさんが若き日のマンデラさんのように思えます。
 ここで、ナアマさんのプロフィールを彼の妻クロード・マンジャン・アスファーリーさんのビデオメッセージの中から簡単に紹介します。
 彼はモロッコ南部のターンターンで1970年に生まれました。先祖はトンブクトゥとマラケッシュの間の交易の大きな隊商でした。父と祖父は誇り高い遊牧民でした。7才の時、父親が目の前で逮捕され、以来、16年間行方不明に。母は抵抗のシンボルでしたが、若くして病死。兄弟3人は叔母が育てる。学業のため家族でゲルミーンに引っ越し。マラケッシュで法律を学び、その後パリで国際公法の修士を取得し、2003年に結婚。博士課程に進む予定であったが、2005年に占領地でインティファーダが始まり、「西サハラの自由の尊厳と人権のための委員会」を設立し、共同代表に。2006年以来、人権オブザーバーとしてモロッコや西サハラで開かれるサハラーウィ活動家たちの裁判に参加。以来、監視と迫害が彼につきまといます。2006年に逮捕され、その後も繰り返し逮捕されてきました。彼は常に自分の裁判を海外のオブザーバーに傍聴させ、西サハラの闘いを広めようとしてきました。そして2010年に再投獄され、今も獄中です。
 一方、クロードさんは、ナアマさんを含めた政治囚を救援するために、モロッコへの入国拒否等、モロッコ当局の悪意に阻まれながらもNGO反拷問キリスト教徒協会と共同で国連拷問禁止委員会に働きかけて、モロッコ公安機関を提訴するなど、粘り強く闘ってこられました。その結果、2016年、国連拷問禁止委員会は初めてモロッコを糾弾しました。2018年5月、フランスにクロードさんの支援会ができて、夫を訪問する権利を要求してナアマさんに名誉市民権を付与した市の市庁前でハンストを30日間行いました。そしてついに、フランス人権委員会に守られ、2019年1月に1時間ずつ2回監視人付きで ナアマさんに会うことができました。が、6ヵ月後、2019年7月、フランス当局に通知して再訪すると再び入国拒否に遭うのです。彼女は支援の輪を広げるために、3年前には来日もされています。
 最後にクロードさんのメッセージの中にある、夫ナアマさんの力強い言葉を紹介します。
  「私は 敵を思い通りにさせない。
  道徳上、民族上、宗教上、モロッコは有罪だ。
  父母を思うと 誇らしくなる。
  私は彼らの支えで モロッコを糾弾する。
  私はこの喜びを 誰にも奪わせはしない。」
(ナマアさんの言葉の仏文和訳=箱山富美子)
 さて、このセミナーを開催した西サハラ友の会はまだ出来たてのミニ市民グループです。日本での西サハラ問題についての認知度は絶望的な低さではありますが、粘り強く市民運動として続けていこうとしています。
 今回のオンラインセミナーでは当初、2019年にライト・ライブリーフッド賞を受賞したアミーナトゥ・ハイダルさん(53頁の写真参照)という、西サハラの人々のための闘いで先頭に立ってきた女性にもスピーカーとして登場していただく予定でしたが、健康上の問題でかないませんでした。しかし、このハイダルさんは、世界が認めた西サハラのリーダーです。彼女だけでなく、女性たちは西サハラの人権に関しての貢献で目覚ましいものがあります。
 
現在の西サハラ情勢―民族自決へ?
 西サハラでは、私がこのエッセイを書き始めようとしたちょうどそのとき、モーリタニアに接する西サハラ南西部にあるゲルゲラート近くの軍事緩衝地帯にモロッコ軍が侵入し、3週間そこで抗議の道路封鎖をしていたサハラーウィたちを強制排除しました。ナアマさんもそのゲルゲラートの非暴力デモについてメッセージの中で触れています。グデイム・イジーク抗議キャンプの悲劇から10年を経て、再び民衆は立ち上がったのです。彼らの代表であるサハラ・アラブ民主共和国(RASD)は、これをモロッコ軍の新たな停戦協定違反であるとして停戦破棄を宣言し、サハラーウィ人民解放軍(ポリサリオ戦線)は西サハラ占領地内の複数のモロッコ軍陣地を攻撃しました。現地の緊迫した様子が私たちにも伝わってきました。しかし29年間続いた停戦が反故になるとともに、モロッコによる占領地支配の進行を容認してきた国連の「仲介」の正体、つまり無策が明らかになったと言えます。これからの事態の行方はわかりませんが、部族闘争の勃発だとか、少数民族による武装蜂起をモロッコ政府軍が鎮圧しようとしているなどというとらえ方は適切ではありません。今回のモロッコ政府軍による不当な攻撃に対する西サハラの人々の抵抗は、ナアマさんの訴える「敗者」を自覚せざるを得なかったサハラーウィの民族自決のための命がけの闘いなのですから。

メルフファをまとう旧強制失踪者3人
(左端がアミーナトゥ・ハイダルさん、右端がガーリーヤ・ドゥジーミーさん)

■補足■
●西サハラ問題についてより詳しく知りたい方のために図書を一冊推薦します。新郷啓子著『抵抗の轍 アフリカ最後の植民地 西サハラ』インパクト出版会、2019年。また、西サハラ友の会のホームページ(https://fwsjp.org/)には豊富な資料、写真、最新ニュースなどがありますので、ぜひアクセスしてみてください。
●ファドゥワ・トゥカーンの詩「永遠に生きてあれ」はもともとアラビア語です。その英訳はスラーファ・ヒッジャーウィーさん、それを和訳したのは関場理一さんです。なお、ファドゥワ・トゥカーンの詩は『パレスチナ抵抗詩集』土井大助訳(アラブ連盟駐日代表部、1982) に収められています。また、ファドゥワ・トゥカーン著/武田朝子訳『「私の旅」パレスチナの歴史―女性詩人ファドゥワ・トゥカーン自伝』(新評論、1986・2・1) もあります。
●12月10日、トランプ米大統領はモロッコとイスラエルが国交正常化で合意したと発表しました。米国は引き換えに、西サハラに対するモロッコの主権を認めるという、唖然とさせられるニュースでした。これまで西サハラ全体に対するモロッコの主権を認めた国はありません。イスラエルとの国交に合意するためには、西サハラに対するモロッコの主権を米国が承認することが絶対条件であるというモロッコの要求に応じたのです。米国の国是のような民族自決の原則を投げ捨てるような合意内容への激しい反発が国内外からすでに出ています。この件からは、イスラエルとモロッコの親和性、そしてパレスチナと西サハラの共通点が図らずも見てとれます。