アフリカ最後の植民地

民族と歴史

西サハラの人びとは自らをサハラーウィ(Sahrawi またはSaharawi)と呼んでいます。それは「砂漠の民」を意味します。サハラーウィは主としてアラビア語の一方言であるハッサニーヤ語を母語とします。19 世紀終わりにスペインの植民地となり、それが西サハラ住民のアイデンティティ形成に強い影響を与えました。

 

非植民地化プロセス

1970 年代、西サハラでも民族独立の機運が高まりました。しかし、1975 年、スペインからの独立過程で隣国のモロッコに侵略・占領されてしまいました。 現在、西サハラは国連が進める非植民地化において「非自治地域」とされています。非自治地域の住民は自決権を有し、独立か否かを決定することができます。1975 年の国際司法裁判所の勧告的意見においても、西サハラにモロッコの主権は及ばないとされました。現在非自治地域は17 地域あり、西サハラは人口においてそのトップに位置しています。

1991 年に成立した停戦協定を受け、国連は西サハラで住民投票を行うことを決定し、現地に西サハラ住民投票派遣団(MINURSO)を展開しました。しかし、モロッコの頑なな拒否とモロッコの後ろ盾となっているフランスやアメリカの力によって住民投票は行われないまま、今日に至っています。

 

ポリサリオ戦線とサハラ・アラブ民主共和国

1973 年5 月、ポリサリオ戦線が誕生しました。ポリサリオ戦線は1976 年2 月27 日、サハラ・アラブ民主共和国(RASD)の樹立を宣言し、政府をチンドゥーフの難民キャンプに置きました。西サハラの東部を解放区としています。40 ヶ国以上から国家承認を受け、アフリカ連合(AU)のメンバー国にもなっています。

 

和平努力

和平仲介努力はアフリカ統一機構(OAU)が住民投票を提案し、国連がそれを引き継いで1991 年にその実施が決まりました。しかし、今日まで住民投票は行われていません。2017 年、アントニオ・グテレス国連事務総長の下で仲介努力が再開しました。 しかし、特使として任命された元ドイツ大統領のホルスト・ケーラー氏が健康を理由に2019 年5 月に辞任。以後、交渉は再開されていません。

 

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