西サハラ全図と概要

概要

 

アフリカの地図を詳しく見ていて、その北西部に、階段状の国境で区切られた、意外と広い「謎の地域」があることに気づいた方もいらっしゃるかと思います。モロッコ、モーリタニア、アルジェリアに国境を接するこの地域が「西サハラ」です。他国とは国名の色が違ったり、統計地図では「データなし」と表示されることが多いこの地域は、「帰属が決まっていない」とされる地域の中では、世界の中で最も広大な地域です。

では、この地域は、誰も統治していない「本当の空白地帯」なのでしょうか。もともと、この地域には「サハラの民」(サハラーウィ)と言われる人々が遊牧民として暮らしてきました。しかし、この地域は19世紀末の欧州列強によるアフリカの植民地分割において、「スペイン領サハラ」となり、スペインの植民地となりました。スペインでは戦後長らく、フランコ総統によるファシスト独裁体制が敷かれていましたが、1975年にフランコ総統が死去、民主化・王政復古がなされました。この時、ハッサン2世のもとで「大モロッコ主義」を掲げ拡張主義政策をとっていたモロッコ王国は、この地の領有権を主張。国王ハッサン2世は国民を大動員して「緑の行進」を組織、スペインにプレッシャーをかけます。スペインは自国の民主体制構築に追われ、旧植民地の住民に将来の帰属の在り方を問うこともなく、北半分をモロッコ、南半分をモーリタニアに割譲する秘密協定として「マドリード協定」を結び、慌ただしく撤退してしまいます。

実際には、西サハラでは1973年に住民主体の組織「ポリサリオ戦線」(正式名称はこの地の名前をとって、「サギア・エル=ハムラ及びリオ・デ=オロ人民解放戦線」、頭文字がPOLISARIOなので「ポリサリオ戦線」といいます)が結成され、独立を求めて武装闘争を開始していました。慌ただしく撤退したスペインの後に進撃してきたモロッコとモーリタニアは、瞬く間にこの地を軍事占領してしまいました。その結果、多くの西サハラ住民がポリサリオ戦線とともに隣国アルジェリアの南西部、サハラ砂漠の中でも自然条件が厳しい一帯、ティンドゥフ周辺に脱出し、ここに十数万人規模の難民キャンプを作ることになります。

その後40数年、西サハラを脱出した十数万の人々は、今もなお、生まれた地に帰ることができず、砂漠の難民キャンプで、過酷な生を営まざるを得ない状況が続いています。一方、モロッコ統治下の西サハラに住む「サハラーウィ」の住民たちは、モロッコ人の大量入植とモロッコ主導の開発、資源の収奪、モロッコの政府と警察権力による監視と抑圧、独立運動への厳しい弾圧の中で、今も過酷な生活を送っています。

 

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▶︎西サハラを知る 西サハラ略史
▶︎問題はなにか  最後の植民地
▶︎問題はなにか  深刻な人権問題
▶︎問題はなにか  奪われる資源
▶︎西サハラ参考資料