[速報] 西サハラ、停戦崩壊か? 〜ゲルゲラート危機の克服に向けて

 11月13日(金)、モロッコ軍が西サハラ南西部にあるゲルゲラート近くの軍事緩衝地帯に侵入し、3週間そこで抗議の道路封鎖をしていた西サハラの人びと(サハラーウィ)を強制的に排除しました。サハラ・アラブ民主共和国(RASD)は、これをモロッコ軍の新たな停戦協定違反であると非難し、停戦の破棄を宣言しました。そして、サハラーウィ人民解放軍は西サハラ占領地内の複数のモロッコ軍陣地への攻撃を行いました。
 これによって1991年に成立した停戦は危機に陥りました。この危機はゲルゲラートでのできごとに端を発するものの、29年続いた停戦を経ても結局問題を解決できなかった仲介努力の破綻を意味するもので、極めて深刻な事態と言えます。ここでは、事態がなお流動的な中で、問題の背景と5日間のできごとを整理してお伝えします。

  1. 停戦合意
     モロッコとポリサリオ戦線の停戦は1988年に基本合意が成立し、1990年の「解決案(Settlement Plan)」の一部を構成することになりました。当時のデクエヤル事務総長の周旋による「解決案」は停戦と住民投票を2本柱としていました。1990年6月、安保理は決議658でこの「解決案」を承認し、さらに1991年4月、決議690 (1991)でMINURSO(国連西サハラ住民投票派遣団)を設置しました。MINURSOの任務は停戦監視と住民投票の実施です。停戦は1991年9月6日に発効しました。
     1997年、モロッコとポリサリオ戦線は、停戦に関連して区域を定める「軍事協定第1号(Military Agreement No. 1)」を締結しました。今回問題となっている停戦協定違反というのは、この軍事協定第1号への違反です。協定は西サハラ全域を3種の地区に分けています。ここで登場する「砂の壁(berm)」というのはモロッコがポリサリオ戦線を寄せ付けないために建設した南北2,700kmに及ぶ分離壁です。


    (MINURSOの地図参照:出典 Nick Brooks, Sand and Dust, https://sandanddust.wordpress.com/2020/11/14/a-return-to-war-in-western-sahara/

    (1) 緩衝地帯(Buffer Strip: BS):砂の壁の南・東側5kmの範囲。砂の壁自体はこれに含まれない。
    (2) 制限地区(Restricted Area: RA):第一制限地区は砂の壁の北・西側30km、第二制限地区は砂の壁の南・東側30kmで、砂の壁は第一制限地区に含まれ、緩衝地帯は第二制限地区に含まれる。
    (3) 限定的制限地区(Areas with Limited Restrictions: ALR):第一制限地区の北・西側、第二制限地区の南・東側に位置する地域。
     協定はそれぞれの地区に対する違反行為を細かく定めています。緩衝地帯については、モロッコ軍・ポリサリオ戦線軍のいずれもが、いかなる時も、地上及び空域の両方において、その人員をそこに立ち入らせたり、装備を持ち込んだりしてはならず、また、そこで武器を使用したり、そこに向けて発砲したりすることはできません。
     また、制限地区については、部隊の投入や軍事行動、武器の保管、軍事施設の設置が幅広く禁止されている他、MINURSOの事前の了承がなければ、砂の壁の修復や、あらゆる保管庫、新しい建物の建設、既存施設の拡張が禁止されています。
     サハラーウィたちが抗議活動をした場所は緩衝地帯にあり、それは第二制限地区に属します。

  2. モロッコによる道路の建設
     2001年3月15日、モロッコはゲルゲラート付近の緩衝地帯を横断しモーリタニアに達する道路を建設する予定であると国連に通知しました。そして同日、モロッコ軍は近くにあったモロッコ軍検問所から1km北の位置に部隊を配備しました。MINURSOはこの道路建設は微妙な問題を引き起こし、停戦違反となりうる行動を含んでいると警告を発しました。それに対し、モロッコ軍は緩衝地帯には入り込まないと返答しました。(モロッコは軍人が緩衝地帯に入らなければ違反とならないと解釈しているようです。)
     MINURSOやその他関係国の要請によって工事は一旦中断されたのですが、結局、モロッコは道路を建設してしまいました。一方、国連の態度はその後あいまいになり、道路の存在を事実上許してしまっています。今ではモーリタニアからの産物をモロッコに運ぶ唯一の道路になっていますが、麻薬の運搬も行われていると伝えられます。
     ポリサリオ戦線はこの道路建設自体を軍事協定第1号への違反だと非難しています。

  3. 抗議の道路封鎖
     サハラーウィたちによるゲルゲラートの抗議の道路封鎖は今年の10月21日に始まりました。参加したのは若者から高齢者までの幅広い年齢層の男女です。人びとは付近にテントを張って住み込み、道路上に簡単な障害物を置いて交通を遮断しました。ただ、人道的な目的だと判断されれば車は通過が許されていたようです。封鎖は11月13日、モロッコ軍が封鎖の実力解除に乗り出すまで続きました。13日の実力解除の直前の雰囲気は、夜中に踊っている映像がFacebookにアップされていることからも、高揚したものであったことがうかがえます。
     抗議を取材したいと思う海外のマスコミはゲルゲラートへのアクセスを許されませんでした。そのため、抗議参加者たちはSNSを使ってさかんに情報を発信しました。

  4. モロッコ軍の投入
     11月13日(金)夜明け頃、モロッコ軍は緩衝地帯に侵入し、抗議する人びとを追い払いました。モロッコは抗議参加者たちをポリサリオ戦線の「民兵(militia)」と呼んでいて、あたかも戦闘員のようなイメージを与えています。モロッコ軍は14日、封鎖を解除し、非常線を張り、国境を開けたと発表しました。

  5. サハラーウィ人民解放軍の攻撃、モロッコの攻撃
     11月13日、現地時間の午前10時48分、サハラ通信社(Sahara Press Service)は、モロッコ軍が緩衝地帯に入るという停戦協定違反を行ったことを報じました。そして、同日、サハラ・アラブ民主共和国大統領・ポリサリオ戦線書記長・サハラーウィ人民解放軍最高司令官であるブラーヒーム・ガーリーは大統領令によって停戦遵守を終わらせ、武装闘争の再開を命じました。その夜、サハラーウィ人民解放軍はモロッコが占領する西サハラ領内のマフバス(Mahbas)などのモロッコ軍陣地に向けて砲撃を行ったとのことです。その後、11月17日にいたる5日間、毎日複数のモロッコ軍陣地に対して砲撃を行っていると発表しています。また、サハラ通信社はモロッコ側に死傷者が出ていると報じています。アルジェリアのチンドゥーフにある難民キャンプでは、志願兵の募集が始まりました。
     一方、モロッコ側も砂の壁の東側、いわゆる「解放区」に対して砲撃を加えているようです。仏ル・モンド紙が報じている他、国連事務総長報道官も双方から砲撃についての報告を受けていると述べています。

  6. エル=アイウンでの活動家逮捕
     モロッコ警察は西サハラの中心都市エル=アイウンを始めブジュドゥール、スマラ、ダーフラなどで、独立派活動家とみなされる人びとを次々と逮捕しています。これらの都市では独立を求める平和的なデモが展開されているようで、それを弾圧していると考えられます。9月に結成されたばかりの団体「モロッコの占領に抗するサハラーウィ組織(ISACOM)」が11月17日に出した声明は、11月10日に誘拐された2名のサハラーウィ活動家、Ali SaaduniとNurdin Al-Argubiが拷問で悪名高い私服警官に連れ去られたと述べています。また、Facebookにもエル=アイウンでの警察の夜間の襲撃の様子を捉えた映像がアップされています。

  7. 国連と国際社会
     10月21日の道路封鎖以後、国連事務総長は双方に対して自制をするよう説得を続けていました。しかし、11月13日、事務総長報道官は、説得が失敗したと発表しました。そして、モロッコ軍の緩衝地帯への踏み入れとサハラーウィ人民解放軍の反撃が始まったのです。11月17日時点で、事務総長はまだ停戦が破綻したとは言っておらず、あらゆる努力をするつもりであるとして、停戦復帰への希望を述べています。
     EUや各国政府は双方に自制を求める発表をしています。ポリサリオ戦線を受け入れているアルジェリア政府は、13日、ゲルゲラートにおける(モロッコ軍による)停戦違反を遺憾と述べ、双方に軍事協定第1号の遵守を求めました。アルジェリア赤新月社は16日、支援物資60トンをサハラーウィの難民キャンプへ空軍機で届けています。17日、ナミビア政府はモロッコ側の行動を「侵略的な軍事攻撃」として厳しく非難しました。アフリカ連合委員会委員長は14日の声明で、ゲルゲラートの緩衝地帯での停戦協定違反を非難し、双方に交渉への復帰を求めました。

  8. 危機の克服に向けて
     今回の軍事行動へのエスカレーションはゲルゲラートだけを原因とするものではありません。背景には、モロッコが軍事協定第1号に違反して緩衝地帯での道路建設を行い、その既成事実化を過去20年近く行ってきたこと、そしてそれが放置されたまま、住民投票も行われず、西サハラ人民の自決権行使がなおざりにされてきた現状に対するサハラーウィの不満があります。サハラーウィたちが道路封鎖を行ったのも、道路建設に象徴される占領の既成事実化に対する抗議でした。ポリサリオ戦線側の停戦破棄宣言は、停戦がそもそも和平創出に繋がらず、むしろモロッコによる西サハラ占領の永続化に貢献してきたという判断にもとづくものです。この数年、西サハラの占領地や難民キャンプでは、現状に対する不満から武装闘争路線への復帰を期待する声が強まっていました。ポリサリオ戦線はそうした不満を抑えるべく努めてきましたが、もはやそれを押さえることはできなかったものと思われます。したがって、今回の危機は和平プロセス全体の危機ということができます。
     国連は「ステータス・クオ(現状)」への復帰を呼びかけていますが、現状がモロッコの利益に資するものでしかない限り、単なる現状への復帰ではサハラーウィの不満を解消することには繋がらないでしょう。
     エル=アイウンを中心とした占領地内の活動はもっぱら非暴力運動として発展してきました。差別撤廃や人権尊重を訴え、平和的に自決権の行使を求める運動は、若い世代に近年急速に広がっています。こうした行動を力で押さえ込むモロッコの治安当局の手法は多くの人権侵害を生んでおり、さらなる反発を生んで泥沼化していくでしょう。
     国連と国際社会は今一度、国連憲章と幾多の国連安保理・総会決議に基づいて、西サハラの非植民地化プロセスを完遂させるべく行動する必要があります。そのためには、安保理決議で決まった住民投票の実施を受け入れるようモロッコ政府を説得することが欠かせないでしょう。

文責・松野明久